浄土真宗親鸞会 熊本県 親鸞聖人の教えを学ぶ集い

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親鸞会熊本県 ひとこと言いたい!

〜管理人が 親鸞学徒の立場で 混迷する世の中に ひとこと物申すコーナーです〜

【2008/1/8 更新】

人間に生まれてよかった!という喜び

親鸞会 熊本 熊本市の慈恵病院に、「こうのとりのゆりかご」通称赤ちゃんポストが設置されて、すでに11人の赤ちゃんを保護した、と発表がありました。
 特に12月には、3人と増えたため、どうしたものかと、憂慮する声も上がっているようです。

 もちろん、この設置には、今でも賛否両論あります。容易に結論の出る問題でもないでしょう。思わぬことで、熊本にスポットライトが当たり、他県で働く熊本県出身者の皆さんが、「熊本はどうなっているんだ」と、周囲から責められることもあるようです。

 ただ言えることは、賛成する人も、反対する人も、「人命は尊い」という一点では、誰も異論はないでしょう。
 人命は地球より重い、だからこそ、設置して救済すべきだ、という人もあるし、人命は地球より重い、だからこそ、こんな形の受け皿を設けるべきではない、という反対論もあります。

「人命は地球より重い」、確かに皆、うなずくでしょうが、では、なぜ人命は尊いのでしょうか。なぜ地球より重いのでしょうか。
 その地球より重い人命が、いとも簡単に奪われる事件も、頻発しています。自ら、その重い命を絶ってしまう人も、日本だけでも、年間3万人を超えています。
 本当に生命の尊厳を知っていれば、ありえないことではないでしょうか。

 仏教では、「人身受け難し 今すでに受く」というお言葉があります。

「人身」とは私たち人間のことです。「人身受け難し、今すでに受く」とは、生まれ難い人間に生まれることができてよかった、という喜びの言葉です。よくぞ人間に生まれたものぞという生命の大歓喜です。

 私たちは人間に生まれたことを当たり前に思ったり、苦しい時などは、人間に生まれたことを恨んだり、後悔したりしていますが、人間に生まれたことは、大変に喜ばねばならぬことだと、お釈迦さまは教えておられます。

 ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えると、お釈迦さまは次のような話をされています。今日、盲亀浮木(もうきふぼく)の譬えといわれているお話です。

「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その盲亀が、100年に一度、海面に顔を出すのだ。広い海には1本の丸太ん棒が浮いている。丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。その丸太ん棒は風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
 阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴にひょいと頭を入れることがあると思うか」
 聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」
お釈迦さまが念を押されると、
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
とお釈迦さまは教えられています。

「有り難い」とは「有ることが難しい」ということで、めったにないことを言います。
 人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと、お釈迦さまは教えられているのですが、喜んでいるどころか、なんで生まれてきたのだろう。人間に生まれさえしなければ、こんなに苦しまなくてよかったのに、と恨んでいる人さえあります。
 それは、何のために人間に生まれてきたのか、何のために生きているのか。なぜ苦しくても生きねばならないのか。人生の目的が分からないからです。

「人間に生まれたのはこれ一つのためであった」と人生の目的を達成させ
ていただいた時にこそ、
「人身受け難し、今すでに受く」
「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜が起きるのです。

 本当の人生の目的を、親鸞聖人から聞かせていただきましょう。

 

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