ひとこと言いたい!
〜管理人が 親鸞学徒の立場で 混迷する世の中に ひとこと物申すコーナーです〜
【2009/5/11 更新】
油断大敵 慢心に注意
熊本日日新聞で、楽しみにしているコーナーの1つが、肥後狂句です。
5月5日の子どもの日、こんな句が載っていました。
「至近距離 だけんしょっちゅう遅刻さす 」
(良町 成松 久雄)
一読して、いる!いる!そんな人!と、小ヒザを叩きました。学校の近くに住んでいる子が、しょっちゅう遅刻してくる。逆に、遠くから通っている子は、きちんと時間までに来ている。
おかしなものだなあ、と思っていましたが、至近距離に住んでいるものだから、「なーに、だいじょうぶ。すぐ行けるから」と油断をして、かえって遅刻してしまうようです。
「ウサギとカメ」の童謡でも、同様です。(シャレじゃありませんが)カメなんかに、負けるものかい、と、ウサギは油断して、途中で寝てしまい、結局負けてしまいました。
太平洋戦争中の日本軍も、真珠湾攻撃やマレー上陸など、緒戦の連勝に油断したため、ミッドウェーの海戦等で大敗を喫し、最後は、無条件降伏にまで、追い込まれてしまいました。
何事も、油断する、ということは、大失敗につながるようです。
では、何が、油断させるのか。
どうも、それは、慢心にあるようです。
仏教では、自惚れ心を、「慢」と言われます。自分を良いものと思い、毛頭自分を悪く見れない心です。
その慢心のために、手痛い失敗をした人が、歴史上、数多くありました。しかし、中には、その慢心による失敗を深く反省し、自己を戒め、成功をおさめた人もありました。
例えばこんな人もあったと、高森顕徹先生の『光に向かって100の花束』に、紹介されています。
(32) なにが家康を天下人にしたか
失敗の教訓生涯にただ一度の敗戦「三方ヶ原の合戦」が、家康を天下人にしたといえば意外かもしれぬ。
三方ヶ原は浜松市の北方に広がる、東西8キロ、南北12キロの台地である。元亀3年12月22日。
家康(31歳)の11,000が、武田軍25,000と激突し惨敗した。
当代随一の名将・武田信玄の遠江侵攻に、どう対処すべきか。
籠城持久戦を主張した信長にたいし、家康は積極作戦を考えた。長期の今川氏からの解放感と、浅井、朝倉を撃破した自信から、信玄恐るるに足らず≠フ思いあがりが家康にはあった。
一方、浜松城の堅塁を知っていた信玄は、大胆な欺瞞作戦で、家康を三方ヶ原へと誘いだし、武田騎馬隊の勇名をほしいままにした。
信玄が投げたエサに食いついた家康は、若気のいたりといわれても、しかたがなかろう。
命からがら、彼は浜松城へ逃げ帰っている。
「彼を知りて己を知らば、百戦してあやうからず。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとにあやうし」
孫子の言を三方ヶ原で、家康は証明させられた。
ただし家康の偉大さは、敗因が慢心にあったことを深く反省し、信玄を師とあおいで、彼の戦術戦略を学びとったところにある。
三方ヶ原の敗戦から28年たった慶長5年。石田三成と天下を争ったとき、みごとに彼は、この失敗の教訓を生かした。
まず、石田三成ら反徳川勢に挙兵させるため、みずから上杉討伐に出かけてスキをつくる。
決戦前日には三成の本拠、佐和山城を突く≠ニの偽情報を流して、大垣城に拠る西軍を関ヶ原へ誘いだすことに成功し、殲滅している。
信玄が自分にとった戦法を、そっくりまねたのだ。
失敗を成功のもとにするのは、心構え一つである。
失敗の原因が自己の慢心にあったと、謙虚に反省し、それを教訓として後の成功につなげたところに、家康の天下人たるゆえんがあったといえるでしょう。
まして、もっと大きな人生の目的に向かう私たち親鸞学徒は、よくよく心して、光に向かって進ませていただきたいと思います。